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江戸の火事/明和の大火/文化の大火

江戸の火事(えど の かじ)は、江戸時代に江戸で発生した火事のこと
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江戸時代のおよそ265年のうちに、江戸では火元から長さ15町(約1636m)以上焼いた大きな火事が96回あった。3年に1回は大火、7日に1回は小火(ぼや)があった。

当時の建物が木造で竹と紙(襖)で出来ていた以上、一度ついた火を消すことは大変なことであった。江戸は風が吹く日に火事になることが多く、ちょっとした火の粉でも簡単に大火事に発展した。

夜半に半鐘の打ち鳴るなか、屋根の上に見える燃え上がる真っ赤な空や火の粉を見て「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたこともあったが、火災について本格的に論じた研究は乏しい。

1972年、江戸町人研究の第一人者である西山松之助が「江戸町人総論」の中で江戸の都市としての性格を「火災都市江戸」と規定して江戸における火災の意義に初めて着目し、本格的な考察を行った。

東京都新宿区の四谷3丁目交差点角の東京消防庁四谷消防署に併設されている消防博物館に、江戸の火事についての資料が数多く展示されている。

主な大火
明暦3年(1657年) - 明暦の大火(振袖火事)
明和9年(1772年) - 明和の大火(行人坂の火事)
文化3年(1806年) - 文化の大火(芝車坂の火事)
以上を「江戸三大大火」という。

天和2年(1682年) - 天和の大火(お七火事)
元禄11年(1698年) - 勅額火事(中堂火事)
元禄16年(1703年) - 元禄の大火(水戸様火事)
安政2年(1855年) - 安政の大地震による大火

消火・防火対策
屋根番制度:天和3年(1682年)・各町に1人か2人を屋根番をおかせ、大風の日や火事があったときは屋根の上で監視させる。
火付改:天和3年(1682年)・はじめての火付改として中山勘解由が任命される。海老責の拷問で知られ「鬼」と称された。のちに火付改は盗賊改といっしょになって、火付盗賊改となる。
火の見櫓:享保8年(1723年)・江戸でも限られた場所にしかなかった火の見櫓が、幕命により江戸市中に設置される 。
町火消し:享保3年(1718年)・南町奉行の大岡忠相の命により、江戸に「いろは四十八組」が組織された。
龍吐水:宝暦4年(1754年)・龍吐水がオランダ人の指導を受け長崎で作られ、明和元年(1764年)には町火消に龍吐水が支給される。
当時の消火方法は可燃物、すなわち家屋を破壊することによって延焼を防ぐ破壊消防というものであった。勇敢な火消しなどは多くの場合、英雄視されたのであった。

経済
当時、要所を治める武士の場合、火事見舞いによる「焼け太り」という現象が報告されている。

資材を大量に使用する都市再建が行なわれるために、大火後は全国的に景気がよくなった。商家は大火の発生による資産焼失に備えて、商店の建築を簡易なものとし2~3年で償却しおわるように設計していた。

犯罪として
「火付=放火」は多くの人の命を奪ったり大量の焼出し者をだしたので、特に重罪とされた物の一つである。このため火付は死刑の中でも特に重い火罪(火あぶり)をもって罰せられていた。さらには親族や雇い主に対しても連帯責任(連座)が適用される場合もあった。

また失火でも出火元は罪に問われ、特に大火を引き起こした者は死刑や島送り、追放という刑が科せられた。

このような重い罪になることを背景として、火付けはほとんどが寺社を標的とした。これは寺社からの出火は町奉行ではなく寺社奉行が捜査責任者となるためである。寺社奉行は捜査能力が低く、逮捕されにくかった。

また、大火後は再建需要で景気が良くなるため火付けは不況期に後を絶たなかった。

作品の題材としての江戸の火事
江戸の火事に関連する当時の出来事や人物は『銭形平次』や『鬼平犯科帳』など多くの作品であつかわれている。

主なものとしては、

時代劇での火消し同士の競い合い。
『暴れん坊将軍』や『銭形平次』などにおける「め組」の親方。
火付盗賊改め方として中村吉右衛門出演による長谷川平蔵役の『鬼平犯科帳』。
『火事息子』(古典落語)
また、八百屋お七の放火事件を元に『伊達娘恋緋鹿子』(菅専助)や『其往昔恋江戸染』(河竹黙阿弥)など多くの芝居が創作されている。

『忠臣蔵』の題材となった元禄赤穂事件では、火事があったように見せかけて本所の吉良氏の屋敷に夜討をかけたという話があるが、これは火事騒ぎに乗じて夜討をかけた『浄瑠璃坂の仇討』を手本にしたとされる。

明和の大火(めいわのたいか)とは明和9年2月29日(1772年4月1日)に江戸で発生した大火で、明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。目黒行人坂(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれる。

「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川平蔵の父親)の配下によって4月頃に捕縛される。明和9年6月22日に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。

29日午後1時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した。

類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災した。

死者は1万5千人、行方不明者は4千人を超えた。老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼した。

文化の大火(ぶんかのたいか)とは文化3年3月4日(1806年4月22日)に江戸で発生した大火で、明暦の大火、明和の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。丙寅の年に出火したため、丙寅の大火とも呼ばれる。

出火元は芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木座付近。午前十時頃に発生した火は、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼。折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。更に火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がった。

翌5日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に530町に及び、焼失家屋は12万6000戸、死者は1,200人を超えたと言われる。このため町奉行所では、被災者のために江戸8か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えた。

なお、この大火のため大相撲の文化3年2月場所は5日目で中断に追い込まれている。

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2009年02月10日 13:27に投稿されたエントリーのページです。

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